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ご冥福をお祈りいたします

謹んでご冥福をお祈りいたします

 6月2日、日本サッカー協会最高顧問を務めていらっしゃった長沼健氏がお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 戦後の日本サッカー界とともに歩まれた方でした。終戦を迎えたのは広島高等師範付属中学(旧制)3年生の時。焦土と、すさんだ生活の中、復員してきた先輩が復活させたサッカー部で、「何でもいいから日本一になってみろ」という先輩の言葉に動かされてサッカーに明け暮れる生活が始まりました。まず始めたのは、芋畑に変わっていた学校のグラウンドを整備することから。1トン以上はあるローラーを引いて地面をならす、文字通り何もないところからのスタートでした。

 のちに、ともに日本サッカー界を引っ張っていくことになる岡野俊一郎氏との出会いもこの頃のことでした。出会いの場所は1947年全国中学校選手権大会(現・高校サッカー選手権)。初戦の相手である東京都立5中(現・小石川高校)のエースが岡野俊一郎氏でした。群を抜いた実力を持つ岡野氏を全員で削るという荒っぽいサッカーで5-0で勝利。当時の試合の様子を「とても日本語とは思えないような奇声をあげて殺到してきた」と岡野氏は振り返られていたそうです。

 日本が初めてW杯予選に参加した1954年には、日本代表として初の日韓戦に出場。記念すべきW杯予選初ゴールを記録。デットマール・クラマー氏の強い推薦があって1962年に32歳の若さで日本代表監督に抜擢されると、ここから岡野氏との二人三脚で日本サッカー界の再生が始まります。東京五輪ベスト8。メキシコ五輪銅メダル。日本リーグの創設。その後の長い低迷時代を経てのJリーグ開幕。W杯出場。そしてW杯招致。喜びの時も、つらく悲しい時も、常に日本サッカーを支え続けてこられた50年でした。

 自身が掲げられていたプロリーグ創設・ナショナルトレーニングセンター建設・W杯招致・そしてW杯予選突破の4つをすべて実現されました。今では当たり前のようになっていますが、いずれも、日本サッカー低迷の時代には夢として語ることさえ現実的ではなかった出来事。そのすべてを実現されたのは、変わらぬ心で日本サッカーを愛し続け、献身的に支え続けてこられた結果のように思います。とりわけ、日本のW杯出場と開催には格別の思いを抱いておられたのではないかと思います。

 多くの方たちによって支えられている日本サッカー界ですが、その中でも、長沼氏の存在がなければ、今の日本サッカーがなかったことは間違いありません。まだ、まだ、見守っていただきたかった思いは強く、今回の訃報には非常に残念な気持ちで一杯です。でもきっと、遠い空の彼方から、これからも日本サッカー界を見守ってくれていると信じています。そして、サッカーにかかわる者として、何らかの形で日本サッカーの発展のお手伝いをすることが恩返しになるのだと思っています。ありがとうございました。そして安らかにお眠りください。

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