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「日本サッカーの父」デットマール・クラマー氏

変わらぬ情熱を持つクラマー氏

 想像通りと言えば想像通り。驚きといえば驚き。かくしゃくとした態度から、次から次へと熱い言葉を発するデットマール・クラマー氏。サッカーに対する情熱と、サッカーを伝えることの熱意は82歳になった今でも少しも変わっていませんでした。サガン鳥栖の松本郁夫GMが、18歳の時に初めて会った瞬間、自分もこの人のような指導者になると決意したのはよく知られていることですが、なるほど、その時の松本GMの決意が分かるような気がします。

 クラマー氏と日本サッカー界が初めてであったのは、1960年の夏、デュイスブルグのスポーツシューレでした。4年後の東京五輪に備えて代表チームが海外合宿を行った際、ドイツ(当時は西ドイツ)サッカー協会が便宜を図り、クラマー氏を日本代表コーチとして派遣してくれたことから、クラマー氏と日本サッカーの関係が始まりました。日本代表チームとはいえ、リフティングが10回以上できる選手は1人だけ。日本のサッカーは、まだそんな程度でした。

 世界的に全くの無名チームであったのは当然ですが、その環境も散々なものでした。芝生のグラウンドなどはなく、日本代表チームでさえ、雨が降ればくるぶしまで埋まってしまう泥沼のような土のグラウンドでの練習が当たり前。代表宿舎は道玄坂の上にある日本旅館。チームスタッフは監督、コーチだけで、何から何まで選手たちでやらなければいけない。そして、その環境が劣悪であることに気付かないほど立ち遅れていた時代でした。

 クラマー氏は、そんな日本にやって来て、文字通り寝食をともにしながら、東京五輪ではアルゼンチンを破ってベスト8に、メキシコ五輪では日本を銅メダル導きました。それだけではありません。芝生のグラウンドの整備、リーグ戦の必要性、プロ化、年代別代表の立ち上げ、指導者養成システムの構築など、今の日本で当たり前にやられているほとんどのことは、クラマー氏が当時アドバイスしたものでした。「日本サッカーの父」と呼ばれるのは、そうした理由からです。

 私がサッカーを好きになったのはメキシコ五輪での日本の活躍をTV画面を通して見てから。いまから38年も前のことです。まだ小学生だった私がクラマー氏と会えなかったのは当然のこと。本や雑誌で知ることはあっても一生会える方だとは思ってもみませんでした。それが、目の前で直接話を聞ける機会に恵まれて非常に興奮している自分がいます。20日に予定されている講演会でも数々の重みのある話が聞けるはず。心にしっかりと刻み込みたいと思っています。

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